なぜ法曹をめざし、マスメディアを研究するようになったのか
 −法学部をめざすみなさんへ−
                           木村哲也


(本稿は、母校明星高校の100周年記念誌に寄稿したものに若干の改訂を加えたものです。大学をめざし、あるいは現在大学生のみなさんの参考にしていただければ幸いです。)

<ジャーナリストにあこがれた高校時代>
 私は、1972年(昭和47年)4月、大阪市天王寺区内にある明星高校に入学しました。岸和田市内の公立中学校を卒業し、電車で通学するようになり、学校内での生活はもちろん、日々見聞きすることは、それまでのものとは格段に違ったものとなりました。それまで、田舎といっても過言でない岸和田市内のごく限られた範囲内で生活していた者が、毎日、大都会大阪へ出てくるのですから、入学後の生活の新鮮さ、目新しさはとても印象的でした。
 そんな幼い、何もわからない生徒だったのですが、正義感だけは強かったと思います。もっとも、明星高校では、生徒間のトラブルというものは皆無であり、昨今の学校内で起こる様々な問題を見聞きするにつけ、あんな平和な高校生活が本当だったんだろうかと思うくらいです。したがって、学校内の不正義に怒るというようなことは全くありませんでした。その思いは外に向いていました。電車通学をしていると、大人たちが電車で新聞を読んでいるのを見ます。これを真似て、ときおり駅で新聞を買って読むようになりました。社会面の記事に興味がありました。特に事件の発生や犯人逮捕の記事がおもしろく、「素朴な正義感」を満足させたのです。社会に目を向けているという自己満足がありました。
 そのようなことから、明星高校に在学中は、将来新聞記者やジャーナリストになりたいと思うようになっていったのです。もっとも、夢を現実にするためにそれなりの努力が必要なのですが、当時は現実的に考えていなかったのでしょう。本来は、もっともっと勉強をすべきだったにもかかわらず、そうでもなかったというのが正直なところです。その頃の思いとしては、マスコミ人を多数輩出している東京の某大学に入ればと思っていたのですが、それはかないませんでした。

<法曹をめざした大学時代>
 明星を卒業した1975年(昭和50年)に関西大学法学部に入学しました。大学に入学すると、不思議にも大学受験のときよりも勉強しようという意欲がわいてきました。しかし、新聞社などに就職することができるのだろうかという不安もありました。関西大学の関係者が読まれると気を悪くするかもしれませんが(誤解しないでください。最後まで読んでいただければわかっていただけると思いますが、自分が今あるのは関西大学に入学したからで、今も関西大学にお世話になっており、感謝しているのです)、今とは違って、当時は卒業生で新聞社などのマスコミに就職する人は希で、自己の能力もさることながら、出身大学がどこであるかによって採否が決まるのではないかという不安がありました。
 ともかく、法学部にはいったのだから法律を勉強しようと気を取り直し、市民を相手に法律相談をする学術研究会、つまりひらったくいえばクラブにはいったのです。この「関西大学法律相談所」との出会いが自分の人生の転機になったと思います。入会したときは、何もわからない一年生です。先輩をチューターとする勉強会が行われていました。憲法や民法のゼミ形式の勉強がはじまりました。これがほんとうにおもしろかったのです。高校までの勉強とひと味違ったものがありました。おおげさに言えば、これが学問というものかと感慨に浸ったというところです。当時は、今ほど弁護士による自治体での無料法律相談のシステムが充実していませんでした。学生が主体であっても(もちろん教授やOBが指導にきてくれるのですが)、懇切丁寧に話を聴いてくれるということで、毎週土曜日に開く法律相談には市民の方々がたくさん訪れ、自分も社会に役に立つことに参加しているのだなあという充実感がありました。ともあれ、法律の勉強を始め、半年くらい経つと、取得した知識を将来も生かしていきたいという強い意欲を感じるようになりました。
 関西大学法学部といえば、司法試験でした。同級生らは、入学して間もなく、こぞって司法試験の受験をめざすための研究会にはいりました。自分はマスコミをめざすものと決めていましたから、そんなものには興味がなかったのですが、半年くらい経つと興味の方向が変わってきました。友人の多くが司法試験をめざしていましたから、どのような試験であるかを聞くことができました。年齢に関係なく、何回でも受験でき(試験は1年に1回)、試験に合格できる能力さえあれば、それまでの学歴や職歴は一切関係ないという、まさに平等な試験であるということを知りました。残念ながら新聞社などの試験は、ここまで徹底したものではないと思います。不確定要素が大きいマスコミの就職試験に情熱を注ぎ続けるということに疑問を感じるようになりました。
 もう一つ、それまで司法試験を受けてみる気になれなかったのは、その当時の幼い感性にとっては、弁護士という職業には何か老練・狡猾というイメージがあったからです。ところが「関西大学法律相談所」出身OBの弁護士らと親しくさせていただく機会を持ち、イメージが変わったこと、そして、自分が早く合格して、フレッシュな感覚で仕事ができればいいのだと思うようになり、意識が変わりました。その後は、特に何の迷いもなく、四回生になれば誰もがする就職活動を全くすることなく、その道をめざしたのです。幸い関西大学を卒業した翌年、司法試験に合格しました。

<司法修習>
 司法試験に合格しても、すぐには法曹(裁判官、検察官、弁護士)にはなれません。2年間(現在は1年半に短縮されている)の司法修習を受けます。普通の学校では学べないことをいろいろ学ぶことができました。弁護修習では、修習委員になっている弁護士の事務所にはいり、民事、刑事の書類の作成や弁護士と一緒に法廷に行ったり、法律相談に立ち合ったりします。検察修習では、検事に同行して法廷に立ち会ったり、被疑者(犯罪を犯した疑いのある人)や証人から事情聴取もします(専門用語ではこの事情聴取を「取り調べ」というのですが、あまり好きな言葉ではありません)。裁判修習では、裁判記録を読み、実際の証人尋問などに立ち会ったうえで、判決の下書きをしたりします。数年ほど前に、司法修習生が主人公になったNHKのドラマ「ひまわり」で、司法修習生の生活が紹介されたのをご覧になった方もいるでしょう。
 この2年間の司法修習の間、国家公務員の2年目程度の給料の支給を受けます。今だと20万円少しだそうです。国民のみなさんには申し訳ないのですが、社会正義が実現され、市民の権利が守られる社会をつくるためのコストだと考えていただきたいと願うところです。

<法曹界へ>
 私は、この司法修習を終え、昭和五八年に弁護士になりました。都会の弁護士は誰もがそうするように、最初は大事務所の「イソ弁」になります。「イソ弁」とは、居候している弁護士という意味です。ただし、その名前とは裏腹に、昨今の「イソ弁」は、経験ある弁護士から教えを受けながら仕事ができ、事務所から給料をもらえたうえに、自分自身の人的つながりで依頼のあった事件の報酬は自分の収入になります。非常によい待遇であったものだと思います。
 それでも、やはり自分で事務所を持ちたいと思うのが人情であり、おおかたの「イソ弁」は、数年すると独立します。私も1988年(昭和63年)に独立して同期の弁護士と三人で共同事務所を設立しました。さらに1992年(平成4年)には単独で事務所を開設し、今は、二人の勤務弁護士(つまり「イソ弁」。自分のことをいうにはよいが、今となってはむやみにその言葉を使うのははばかられる)とその他スタッフ五人と一緒に仲良くやっています。
 さて、弁護士は、どんなことをしているのかを説明したいのですが、紙幅が足りません。それはまた別の機会にするとして、ここ10年間やってきたライフワークを紹介させていただきましょう。

<マスコミとの因縁>
 1986年(昭和61年)秋、写真週刊誌が悪名高き存在でした。当時、フォーカス、フライデーをはじめとした五誌が過当競争の時代にはいり、各誌が競って政治家、スポーツ選手、芸能人、タレントのスキャンダルを暴きたてていました。さらには、もともと有名人でもない普通の人が、たまたま事件・事故を起こし、あるいは事件・事故に巻き込まれて突然渦中の人となるや、これが勧善懲悪の世界だといわんばかりに、悪行をたたき、被害者への同情を引くという名目で渦中の人物の写真を掲載して日本中の人に知らしめるという行為を日常的に行っていたのです。それまでにも、新聞や週刊誌をはじめとするマスコミは、被疑者・被告人については遠慮なしに実名をあげ、被害者についても、実名や顔写真を載せても何ら問題ないという意識でやってきていました。
 これをなんとか変えていかなければ、マスコミによる横暴を許すことになると考え、これに法的に対決する方法を研究することを目的として、大阪の弁護士や学者の有志で、「プライバシー研究会」なる私的研究会を発足させたのです。ちょうどそのころ、ビートたけしの恋人の写真がフライデーに掲載されたことがきっかとなって、たけし軍団が講談社を襲撃するという事件がおこりました。そのような時期と重なり、我々の研究会発足もマスコミでとりあげられ、議論が盛り上がりました。
 その後、エイズでなくなった初の女性としてその女性の顔写真を遺族に無断で写真週刊誌フォーカスに掲載した新潮社を相手に、謝罪広告と慰謝料を求める訴えを提起したり、テレビのワイドショーがスパイの汚名を着せるような番組を放映し、その親族の声を無断で録音してオンエアーするなどした事件について、同様の訴えを起こしたりなどの実践活動をしてきました。

<そしてこれから>
 ここまでお読みになった方は、私の立場、発想が学生時代から180度転向したとお思いになるでしょう。確かにある意味では180度の違いがあります。あれほどあこがれていた新聞記者という職業も、現実は、誤報や配慮のない記事により、どれだけ人を苦しめているかという現実を知るようになりました。犯人逮捕の記事が誤報である場合もままあり(逮捕こそされませんでしたが、松本サリン事件の河野さんの例を思い浮かべてください)、また、ほんの出来心で犯した軽微な犯罪を実名をあげて報道するということについても、それが正義だとは思えなくなりました。裁判にかかわるようになり、事実認定の難しさを知るにつけ、むしろ、事実については謙虚に見なければいけないと思うようになりました。
 しかし、マスコミを敵視しているのかというと、そうばかりではありません。個人の尊厳を最大限保障しながら、真に報道すべきことを報道する市民にやさしいマスコミをもつことが理想であると考えます。マスコミを追いやって力のない存在にしようなどとはけっして考えていません。やはり社会にとってマスコミの存在は貴重です。民主主義の発展にとって欠くことのできない存在であり、市民に危険を知らせるべき重要な役割を担っているからです。その意味でマスコミを応援していきたいのです。学生時代に持っていたあこがれは、違った進路を歩んでいる今も心の底にはあるのです。
 まだまだ、力不足ではありますが、「素朴な正義感」に深みを持たせながら、仕事を通じて少しでもそれを実現していこうと考えています。